

2010 WORLD SUPERBIKE CHAMPION
栄光の足跡
マックス・ビアッジは1989年、18歳で125 ccクラスでデビューし、ライダーとしてのキャリアをスタートさせた。
1年後、彼はすでに「スポーツプロダクション・イタリア国内選手権125cc」クラスでイタリア人チャンピオンになっていた。
その敏腕で巧みなライディングスタイルですぐに高い評価を受け、クラスを変更する度に才能を見せつけた。
1991年、すでにロードレース世界選手権250ccクラスに参戦し、最多のポールポジションを獲得。
クラスで最も多く表彰台に上がり、1994年~1997年まで4回連続して(内3回はアプリリアでのタイトル獲得)タイトルを獲得するというこれまでの世界選手権史上達成されたことのない結果を残した。
1998年、ビアッジはホンダから500 ccクラスでデビューした。
鈴鹿で見せたポールポジション獲得、優勝、および最速ラップの3冠達成シーンは忘れられないものとなった。
これは、25年前にフィン(ヤーノ・サーリネン)がたった一人達成して以来誰もなし得なかった3冠達成だった。
シーズン終了時、ビアッジは世界ランキング2位を獲得した。
1999年、ビアッジはヤマハに移籍し、飛躍的な躍進をし始めた。
1年目のこの年は4位、2000年には3位、そして2001年に再び躍進しシーズンを2位で締めくくった。
レジナクラスおよびモトGP誕生についてのルール変更があった2002年のシーズンを、ビアッジは同様の成績で締めくくった。

2003年、ビアッジはヤマハからホンダに移籍し、シト・ポンスのプライベートチームで3位をマークした。
その後、2005年にレプソルHRCに移籍して、オフィシャルホンダモデルで参戦した。
2007年、ビアッジはスズキからスーパーバイクレースに参戦した。
第1レースに勝利、第2レースでも2位につけ、カタールサーキットを訪れた人々を最初から驚かせた。
このシーズンは、トスランドと芳賀とのタイトル争いが特徴的だった。
ビアッジはシーズン残り2戦のバレルンガ・ラウンドでタイトル争いを再び激化させたものの、最終戦のフランスでトスランドが芳賀をわずか2ポイント、ビアッジを8ポイント上回ってタイトルを奪取した。
2008年、ローマ出身のビアッジはドゥカティ・スティリルガルダ・プライベートチームへ移籍し、カタールでの最初のラウンドですぐさま2位と3位の成績で表彰台に上がった。
次のオーストラリアラウンドではハプニングによってシーズンそのものとタイトル奪取への戦いが危うくなったが、変わることなく表彰台に上り続けた。
ミサノおよびバレルンガで2位、ブルノ、ブランズハッチ、およびドニントンでは3位の成績をおさめた。
ビアッジはこのシーズン、ベストプライベートライダーを受賞して7位で締めくくった

2009年は真新しいRSV4に駆ったマックス・ビアッジがアプリリアという名を取り戻した最高の年だった。
この年、大胆な4気筒エンジンを搭載したRSV4を引っさげて、ベネト拠点のメーカーがスーパーバイク世界選手権に参戦したのだ。
最初のレースからこのローマ出身のビアッジはいつもと変わらぬ不屈の精神を見せ、何度か勝利をものにした。
ブルノにおけるコースレコードでの勝利と8回の表彰台獲得は、スリル満載な最初のシーズンでの戦利品であり、ビアッジとアプリリアの融合を再認識させるものだった。
2010年はビアッジの卓越した競争心を裏付けた1年であった。
スポンサーであるアリタリアのイタリアのパドックで、Aprilia RSV4を駆るビアッジはイタリア人がかつて勝利したことのない世界選手権に向かってシーズンを意のままに突き進んでいた。
ビアッジは、ポルティマオ、モンツァ、ミラー(USA)、そしてミサノでダブルウィンを達成し、ブルノで9勝目あげ、ワールドライダーチャンピオンシップ獲得を確実にした。
シルバーストーンおよびニュルブルクリンクでライバルたちは必然的にランキング下位に落ち、イモラでの勝利によりタイトル獲得の唯一のライバルだったレオン・ハスラム(スズキ)を引き離した。
スーパーバイク世界選手権チャンピオンであるマックス・ビアッジは、この偉業を成し遂げた最初のイタリア人であり、彼にとっても250 ccクラスで最後に優勝してから13年ぶり5回目のワールドタイトルになる。
この勝利はモーターサイクルレース史に残る記録でもある。