アプリリアの歴史
~レース参戦から23年―1987年の初勝利から数々の栄冠によりイタリアでヨーロッパでもっとも勝利の栄光に満ちた名前となるまで~
レースのために生まれたアプリリア
その決して長くはない歴史の中で、アプリリアは45回ワールド・チャンピオンに輝いているほか(ロードレース世界選手権36回、スーパーバイク世界選手権2回、トライアル世界選手権2回、スーパーモタード5回)、モトクロスからスーパーバイクまで何百という選手権レースを制し、ロードレース世界選手権だけで277回に及ぶレース優勝という輝かしい歴史によってイタリアおよびヨーロッパでもっとも勝利の栄光に満ちた名前となった。
2004年12月、アプリリアはノアーレ・レーシング部門の再編に伴い、ピアッジオ・グループの一員となった。
ロードレース世界選手権での勝利をめざし、また、オフロード分野やワールド・ラリー、そして世界的に有名なレース「パリ・ダカ」への復帰や2009年のアプリリアRSV4によるスーパーバイク世界選手権への初参戦など、モータースポーツ事業の拡大を図った。
2005年以降、アプリリアは17個の世界タイトルを勝ち取り、そのほかにも、ジレラ(2008年、マルコ・シモンチェリ)とデルビ(2008年、マイク・ディ・メグリオ)というピアッジオ・グループの別のブランドが2度優勝した。
同じ時期、アプリリアはヨーロッパや各国のレースで数えきれないほど多くの勝利をあげてきた。
毎週末世界中で、アプリリアのマシンが国際サーキットやローカル・サーキットを疾駆し、イタリアおよびヨーロッパのモーターバイクの栄光をさらに高め、ライダーたちの走る欲求を満たし、いずれは世界選手権のレースをも走る若い才能を育てていた。
アプリリアがモーターバイクの製造を開始したのは1960年代末のことだったが、1970年代にはすでにモトクロス用50 ccバイクを造り、やがてそれが125 ccへと拡大され、ついに70年代中ごろには最初のモトクロス・レース用のバイクを生産するまでに至った。
1975年にモトクロスでのデビューを果たすと、アプリリアはロードレース世界選手権へと参戦、強豪ひしめく250 ccクラスで無敵の日本勢に戦いを挑んだ。
1985年、アルミ合金製デュアル・ビーム・フレームにマルゾッキ製フォークとリア・モノショックをプロレバー・タイプ・サスペンションに搭載したのがアプリリア最初のマシンだった。
エンジンは、ロータックス製横置き2サイクル2気筒。
1985年3月23日、南アフリカのキャラミ・サーキットでのデビュー戦で、ロリス・レジアーニは12位でフィニッシュした。
その年の選手権レースでレジアーニの駆るマシンは好成績をあげ、リジャカとイモラでは表彰台の一角(3位)を占めた。
1987年になると、アプリリア250はまたたく間にトップへと駆け上がった。
新開発のシャーシとエンジンにより、準優勝を成し遂げたのである(ザルツブルクとリジェカ)。
優勝は時間の問題であり、事実、それはミサノで現実となった。
1987年8月30日、レジアーニが駆ったAF1 250がGPレースで初優勝を飾ったのである。
1988年になるとアプリリアは125 ccにクラスに参戦し、たちまちフランスGPで初のクラス優勝を遂げた。
それから数シーズン後、結果に飢えたアプリリア250が衝撃的なスタートを切ることになった。
1991年シーズンのために新たに開発されたRS250Vは、そのずば抜けたポテンシャルを即座に証明してみせた。
ピエールフランチェスコ・キリがアッセン・サーキットで勝利した後、ポール・リカール・サーキットではレジアーニが2勝目をあげた。
さらに才能の爆発は続き、マックス・ビアッジが250 ccのヨーロッパ・チャンピオンに輝いたのである。
1991年にはチェコスロバキアでアレッサンドロ・グラミーニが優勝し、125 ccでアプリリア初の勝利が記録された。
1992年、アプリリアはロードレース世界選手権で初タイトルを手にした。
アレッサンドロ・グラミーニが125 ccクラスの世界チャンピオンになったのだ。
250 ccでもトップを堅持し、キリがホッケンハイム、アッセン、ドニントンで勝利すると、レジアーニもヘレスとマニ・クールで優勝し、さらに新人だったビアッジがキャラミで自身初のGP優勝を飾った。
アプリリアはオフロード世界選手権でも2回の優勝を果たした。
トミー・アーバラがアプリリア・クライマーを駆ってトライアル世界選手権でチャンピオンとなり、アプリリアもマニュファクチュラー・チャンピオンの座に輝いた。
続く1993年は、250 cc、125 cc共に高い競争力を発揮したものの、わずかにタイトルに手が届かなかった。
そして栄光に満ちた年がやってきた。
1994年、アプリリアに駆ったマックス・ビアッジがオーストラリア、マレーシア、オランダ、チェコ、バルセロナで優勝し、250 ccの世界チャンピオンとなった。
同じ1994年、アプリリア125に駆った坂田和人がオーストラリア、スペイン、チェコで優勝し、125 ccクラスで世界チャンピオンの座を勝ち取った。
アプリリアはそのほかにも8つのレースでポールポジションを獲得し、最速ラップを9回記録した。
また、アプリリアの伝統における画期的チョイスとなる非常に俊敏な2気筒エンジン・マシンをひっさげてレジアーニが500 ccでデビューしたのもこの年である。
1995年シーズン、ビアッジとアプリリアのコンビを止められる者はいなかった。
マレーシア、ドイツ、イタリア、オランダ、イギリス、チェコ、アルゼンチン、ヨーロッパの各GPで勝利をあげ、マックス・ビアッジが世界チャンピオンの座を確実なものにすると同時に、アプリリアに初のマニュファクチュラー・タイトルをもたらした。
その一方、125 ccクラスの坂田は前年のパフォーマンスを再現することができず、シーズンを第2位で終えた。
それでもアプリリアはその年3勝をあげた。
坂田のライディングでイギリスとチェコで優勝し、ブラジルでは徳留真紀が3勝目をもたらした。
500 ccクラスでも着実な進化を続け、レジアーニは名だたる4気筒マシンを相手に10位に食い込む活躍を見せた。
1996年、マックス・ビアッジはマレーシア、日本、スペイン、イタリア、フランス、イギリス、チェコ、カタロニア、オーストラリアでGPを制し、3年連続で世界チャンピオンの座に輝いた。
また、インドネシア、日本、ドイツ、サンマリノでの徳留の優勝、マレーシアとイギリスでのペルジーニの優勝、チェコでは若き才能バレンティーノ・ロッシ、イタリアではエッテル、オーストラリアではギャリー・マッコイが、それぞれ優勝し、アプリリアはマニュファクチュラー・チャンピオンとなった。
1997年、アプリリアは125 ccクラスのライダー部門とマニュファクチュラー部門で世界チャンピオンとなった。
その栄光の立役者はバレンティーノ・ロッシであり、マレーシア、スペイン、イタリア、オーストリア、フランス、オランダ、サンマリノ、ドイツ、ブラジル、イギリス、カタロニア、インドネシアと、全15戦中11戦で優勝を果たした。
1998年シーズンは250 ccクラスで開幕戦の日本GPこそライバルに譲ったものの、全14戦のGPレースで13回の優勝を数えた。
ライダー部門を制したのはロリス・カピロッシ。
アプリリア250の優秀さは、4度にわたり表彰台を独占した事で明らかとなった。
アプリリアは250 ccマニュファクチュラー部門でも、2位以下に大差をつけてワールド・チャンピオンとなった。
125 ccクラスでは、坂田和人がイギリス、フランス、スペイン、日本で優勝しライダー部門第1位に輝いた。
1999年はバレンティーノ・ロッシの年だった。
途方もない力を秘めた2気筒マシン・アプリリアRSWにまたがった彼は9レースで優勝し、250 ccのワールド・チャンピオンシップをわがものとした。
ロッシ以外にも、バッタイーニ、ウォルドマン、マクウィリアムス、ルッチがアプリリアを駆って上位に食い込んだ。
彼らの活躍のおかげで、アプリリアはマニュファクチュラー部門とのダブルウィンを達成した。
アプリリアが大胆に進めた2気筒500 ccマシン・プロジェクトがドニントンで一つの成果を達成した。
原田哲也が優勝まであと少しという大健闘を見せたほか、ポール・リカールで勝利、ムジェロ(ポールポジション獲得)とカタロニアでも4位に食い込んだのである。
1999年は、アプリリアにとってはスーパーバイク世界選手権デビューの年でもあった。
2気筒エンジンのRSV Milleをひっさげて参戦したアプリリアは、4ストローク・エンジンを搭載した錚々たるライバルたちと見事にわたり合った。
翌2000年、スーパーバイクにファクトリー・チームとして正式参戦したアプリリアは早くも世界を驚かせた。
総合優勝は逃したものの、トロイ・コーサーが5レースで優勝し、スーパーポールを4度獲得した。
ロードレース世界選手権ではあいかわらずの活躍が続いていた。
ロベルト・ロカテリが125 ccクラスで世界チャンピオンとなり、アプリリアに15回目のワールド・タイトルをもたらした。
スーパーバイクの2001年シーズンは、3勝(コーサーが2勝、ラコーニが1勝)、8回の表彰台、および3回のスーパーポールを達成し、納得の行く結果を残した。
一方、ロードレース世界選手権については明暗が分かれるシーズンだった。
250 ccクラスでは5勝をあげたものの、125 ccクラスはわずか2勝に終わった(カタロニアでチェッキネロが、ドイツでサンナがそれぞれ優勝したのみ)。
しかし2002年になるとアプリリアは本格的反撃に出た。
4つの部門でナンバーワンとなり、ロードレース世界選手権を席巻したのである。
125 ccと250 ccでマニュファクチュラー・チャンピオンになると共に、250 ccでマルコ・メランドリが、125 ccでアルノー・ヴァンサンがそれぞれライダー・チャンピオンに輝いた。
125 ccクラスでアプリリアは予定されていた16レース中8レースを制したが、250 ccでの活躍はさらにすさまじいものがあった。
アプリリアがなんと全16戦の内、14戦で優勝を果たしたのである。
そしてこの年、アプリリアは新たに設定されたMotoGPクラスで新開発の3気筒エンジンを搭載したRSキューブをデビューさせた。
2003年、アプリリアは125 ccクラス・マニュファクチュラー部門(10勝)、250 ccクラス・ライダー部門(この年250 cc初参戦のマヌエル・ポジャーリがチャンピオンとなる)、250 ccクラス・マニュファクチュラー部門(14勝)の3つのタイトルを獲得した。
MotoGPクラスの方はトラブルの多いシーズンだった。
コーリン・エドワーズと芳賀紀行が駆ったRS Cubeは、フランスGPでは最速ラップタイムを記録するなど大いに期待を持たせたが、やがて輝きを失いシーズン終了を迎えることになった。
2004年と2005年は過渡期の2年間であり、またオフロードに回帰したのもこの時期だった。
ノアーレ・レーシング部門はモトクロスやエンデューロ、スーパーモタードにも力を注いだ。
アプリリアの革新的2気筒エンジンを駆ったジェローム・ジラウドがS2カテゴリーでワールド・チャンピオンとなり、歴史にその名を刻むことになった。
また、ロードレース世界選手権125 ccクラスでマニュファクチュラー・チャンピオンのタイトルも獲得した。
ピアッジオ・グループの一員となり、またレーシング部門を再編したことで、2006年、アプリリアは6つの世界タイトルを勝ち取るという偉業を成し遂げた。
若きスペイン人ホルヘ・ロレンソ(250 ccクラス)とアルバロ・バウティスタ(125 ccクラス)がライダー部門の世界チャンピオンとなり、同時にこの両部門のマニュファクチュラー・チャンピオンシップ獲得にも貢献した。
ロードレース世界選手権での4タイトルに加え、スーパーモタード(S2)で2つの世界タイトルを勝ち取った。
フランス人ティエリー・ヴァン・デン・ボッシュが世界チャンピオンになり、アプリリアがマニュファクチュラー・チャンピオンに輝いたのである。
次のシーズン(2007年)も、5つのタイトルを獲得した。
ロードレース世界選手権250 ccクラスでロレンソが、125 ccクラスではハンガリーのガボール・タルマシクが大活躍した。
同時にこの両部門でアプリリアがマニュファクチュラー・チャンピオンとなった。
また、スーパーモタード選手権S2でもマニュファクチュラー・タイトルを得た。
2008年、ロードレース世界選手権では新たに2つのタイトルを勝ち取った。
125 ccクラスと250 ccクラスで得たマニュファクチュラー・チャンピオンのタイトルは、世界選手権の中でもっとも歴史の浅いクラスでアプリリアの強さを証明するものだった。
しかし本当のレボリューションはまだ始まっていなかった。
翌2009年、アプリリアはかつてない大胆なプロジェクトを打ち出した。
最新鋭の1,000 cc、4気筒V型60°エンジンを搭載した革新的スーパースポーツ・バイクRSV4を市場に投入すると同時に、スーパーバイク世界選手権への復帰計画を発表したのである。
そのプロジェクトのためにアプリリアが白羽の矢を立てたのがマックス・ビアッジだった。
かつて250 ccクラスで世界チャンピオンとなって以来12年ぶりのアプリリアへの復帰だった。
そのビアッジのパートナーには中野真矢が選ばれた。
スーパーバイク復帰1年目にアプリリアは確実な進化を示し、ブルノで初勝利をあげた。
このシーズン、アプリリアはさらに8回表彰台に上り、プロジェクトとライダーの質の高さを証明した。
ロードレース世界選手権では3つの世界タイトルを獲得した。
スペイン人フリアン・シモンが125 ccクラスで総合優勝を果たし、アプリリアは125 ccクラスと250 ccクラスでマニュファクチュラー・チャンピオンに輝いた。
2009年には、アプリリアがラリーに投入した2気筒マシンRXV4.5も最初の成果をあげるに至った。
ファラオ・ラリーに参戦したパオロ・セシが450 ccクラスで優勝し、アプリリアもはるかに大きなマシンを相手に戦いながら第4位に入る大健闘を示した。
このレースはアプリリアRXV 4.5にとってはダカール・ラリー2010の前哨戦でもあった。
非常に過酷なことで世界的に知られるこのラリーで、アプリリアRXVに駆ったチリのフランシスコ・ロペスが(3つのラウンドで優勝し)3位という驚異的成績を納め、またパオロ・セシが450 ccクラスを制した。
しかし2010年最高の話題はスーパーバイク世界選手権である。
アプリリア・アリタリアRSV4とマックス・ビアッジのコンビが前年からの進化をさらに推し進め、トップレベルでのバトルに参戦する力を発揮するようになった。
ビアッジがポルティマオとモンツァでダブルウィンを飾った後、ビアッジのチームメイトである若きイギリス人レオン・カミールが表彰台に上がる活躍で、アプリリアのマニュファクチュラー・ランキング向上に大きく貢献した。
アメリカのミラー・レースウェイでのレースで優勝したビアッジはライダー・ランキングのトップに躍り出る。
すでに4度世界チャンピオンとなっているビアッジにとってランキング1位というのは居心地の良い場所であり、その後ミサノとブルノでもビアッジは優勝を果たした。
赤と白とグリーンに塗り分けられ、アリタリアの「A」という大きな文字をヘッドにあしらったビアッジのマシンの背後に唯一食らいついてきたのはイギリスのレオン・ハスラムだけだったが、その戦いもイモラで決着がついた。
マックス・ビアッジがスーパーバイク世界チャンピオンの座を勝ち取ったのである。
ビアッジはイタリア人として初めてスーパーバイクの歴史上もっとも名誉ある勝利を手にしたと同時に、アプリリアにマニュファクチュラー・タイトルをもたらした。